国道58号線旧道④ 与那大橋
- 2018/10/08
- 00:23

戻り際にもう一度アーチを拝む。
つくづくと美しいロケーションに見惚れる。
また、よく見ればアーチは斜めに架かっている事に気づいた。
入り江の制約された地形に合わせて特殊なアーチにしなければならなかったのだろう。
これがもう少し前の時代であったら煉瓦もしくは石材ブロックによる『ねじりのまんぼ』になったかもしれない。

うん、やっぱりななめってるね。
この状態、ある意味で橋が解剖され構造を見るには良いのかもしれない。
と言うか、アーチの外側がむき出しなってたお陰で、傾斜をを利用して橋上に這い上がれた気がする。
通常の橋台に橋桁を乗せる形状だったら無理だったろう。

さて現行トンネル潜って反対側へ。
わかりやすく旧道が分岐している。

旧道の海岸には大量のテトラポット。道の上にも予備(?)のテトラが置かれている。
道の先にはやはり封鎖された旧隧道、左手には旧々道の与那大橋が見えている。

旧与那トンネル、実は単に封鎖されている訳ではなく泡盛の貯蔵庫として利用されている。
ここで熟成されているのはヘリオス酒造の『与那の蔵』。
注文を受けてから生産し、そして旧与那トンネル内で数年寝かせると言う手間暇かけた物である。
3年熟成で8000円、5年熟成で10000円の高級品だが、旧道と酒を愛する人ならば格別の味がするのではないか。

崩れた護岸向こうに見える与那大橋。
やっぱえらいシチュエーションにある橋だ。
すでに訪れた場所へ無理してここから行く必要もないのでここいらで撤収。
【ちょとだけ与那旧道の考察】

南側旧道分岐の広場、駐車場脇には道路好きには堪らないこんな物があった。
与那岬を巡る道の変遷が記載され、現道・旧道・旧々道、更には大正期に開削された馬車道、明治以前に使われていた山道まで掲載されている。
上記の碑の画像と地形から予想する与那岬の道の変遷をグーグルマップに書き込んでみた。
一番下の黒線は与那岬を超える最も古い道で高坂(たかひら)とよばれる道。
琉球王朝時代から使われていた官道だが、人ひとりなんとか歩けるような小道であった。
真ん中の赤線は、1917年(大正6年)に開削された馬車道で中道とよばれた。
文字通り、岬を高巻きする古道の高坂と現在の海辺を行く国道の中間に位置し、役割的にも歩道と車道の合間といった感じだ。
高坂に比べ多少は輸送量のキャパは増えた中道だが、それでも険しい道であることは変わりなく与那や更に北側の辺戸の集落では船運に頼ることが多かった。
ようやく与那岬を車道として開通したのが、先ほどまで辿っていた1934年開通の旧々道。
この道は1930年(昭和5年)、当時の県知事『伊野次郎』発案による『沖縄振興15箇年計画案』の一部として開削された。
沖縄本島北部の山原(やんばる)地域を開発する為に車道を北端集落の辺戸岬を少し過ぎた奥集落まで開通させる事を計画。
与那大橋は最初の難関工事として取り掛かられ、波の被る険しい岬の岩場を削っての作業となった。
上記計画は地域開発だけでなく、昭和恐慌によって疲弊した沖縄経済を立て直す公共工事でもあった。
不況に加え農作物の不作も重なり農村部では飢饉状態に陥り、無加工だと毒性のある種子であるソテツを窮して食べた人々が次々と中毒症状を起こし死者まで出す事に。
だが『ソテツ地獄』と呼ばれた惨状を脱する為に井野県知事の元で進められた計画だが、日中戦争の長期化により中断を余儀なくされ井野も志半ばで宮城県知事に転じられた。
振興計画が中断されたが、道路計画だけはこの後も継続される。
実は振興策と共に陸軍から軍事道路として開通させる事が要請されていたからだ。
しかし実際に島内で戦闘になった時には敵の手に落ちるのを恐れて折角作った橋を破壊しようとしているのだから皮肉である。
米国支配下の琉球政府道1号線に指定されバスも通れる自動車道路として活用されたが、荒天下では波の下になってしまう危険な道という事で岬をパスする新道が計画され初代与那トンネルが建設された。

初代車道を廃道に追いやったトンネルも旧道となり封鎖され、かつての難所も新道は快適にスルー。
米軍の進行を止める為に破壊されそうになった橋の横には休日の釣りを楽しむ米兵がいる。
もはや殆どの人に忘れ去られつつある廃橋であるが、僕にとってはあの青い入り江を跨ぐ姿は再び会いに行きたいと思わせる魅惑の橋であった。